最近、私が衝撃を受けた歌があります。
『 わしが阿弥陀になるじゃない、阿弥陀の方からわしになる 』
これは、島根の下駄職人 浅原才市(あさはら さいち)さん(昭和七年没)のもの。
浄土真宗を篤く信仰され、下駄つくりの際に出るカンナ屑を紙代わりに、自らの信心をあらわす詩歌をたくさん書き残しました。
学問のなかった才市さんですが、その内容は奥深く、他の詩歌も素晴らしいです。
「私たちが拝む前から、先に神様の方が私たちが幸せになるよう拝んでくださっている」と私は教えてもらいました。
でもそれは、拝んでくださっているだけじゃなく、自分の中に入り込んで下さってもいるのだなと、この浅原さんのお歌にハッと気が付いたようなことでした。
それと同時に私は「頑張って何者かになろうとしなくてもいいんだ」と、なにかしらホッとしたのです。「早く何者かにならなきゃ」と焦っていた自分だったのかもしれません。
「信じる」と言いますけれども、むしろ「神様に信じられている、拝まれている」。そして「すでに繋がっている」私たちなのですね。
ここで、そういう事を自覚して、自分を鼓舞し喜んで今日も行くというような意味の一句が詠めたら良いのですけれど、頭をひねって考えましたが良い句がまったく思いつきません。
金光教教祖ご理解 第74節
『 可愛いと思ふこゝろが神心(かみごころ)ぢや 』
世界中には、たくさんの宗教があります。
そして、それぞれの宗教家の偉い人たちが『神様のお心』について、色々な表現で教えを説いておられます。
けれども、教祖様の御教えほど短い言葉で、しかもはっきりとその中身を言い表した教えは他にありません。それがこの「可愛いと思う心が神心じゃ」という教えです。
つまり、子を思う親心がそのまま「神心」であり、すべてを育てていこうという心が「可愛いと思う心」なのです。
私たちは、この心に育てられているから皆がそれぞれに生きていけるのです。