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執筆者の写真いっきゅう

自分の暮らしの中に

先日、オンライン会議に出席した時のことです。

参加者の質疑応答の様子を見ながら、私を映し出す画面にちょっと目をやるとビックリ。私の無愛想な姿がそこにありました。


「私はこんな風に人の話を聞いているのか。うなずいたり、笑顔をもっと大切にしなきゃ。そうじゃないと誰からも安心して話をしてもらえない」と気づき、さっそく軌道修正。

ずーっと微笑んでいたからでしょう、翌日はほっぺたが筋肉痛。普段その筋肉を使っていない証拠のようなものですね。


特別なところに探しに行かなくとも、けっこう自分の身の周りに、自分を良くするための信心の材料が転がっているものです。





その昔、ある高徳な先生が教祖様のもとへ、山籠りの修行を申し出られた時のことです。


教祖様はその先生に対して、


「あなたは山へ逃げようというのですか。あなたは今、山に行かなくても神様から、日常生活という素晴らしい修行の場を頂き、心を磨く為の心配事や、果たすべき役目を頂いているでしょう。そこから目をそむけて、山へ身を隠すようなことをしては、もったいないですよ。」


という旨の戒めをされたとのことです。


本当に身に信心の力が付く修行には、特別な場所も時間も必要ありません。

ましてや、人様がまねできないような苦行は、神様にご心配をかけるだけです。


毎日の家庭や仕事の場で、自分の務めを神様から頂いた仕事と受けて、常日頃教会で教えて頂いた心をもって、丁寧にさせて頂く。一時だけでなく、繰り返し行う。


これ全てが、実は立派な修行になる。



この当たり前のことを、当り前にさせて頂く道中で、神様が一つ一つの出来事を通して、また自分の心に直接にいといろと気付かせて下さいます。


こういった日常生活の修行によって、どんな過酷な荒行をした人よりも、立派な信心の力が身に付き、そして自分にしか持てない信心の型を授かることができます。


「神様、私はあなたからこれを頂きました。そして普段の生活の中でしっかり役立てて使わせてもらっています。おかげでみんな喜んでくれてます。ありがとうございます。」


こう胸を張って言える本当のご修行をさせてもらいましょう。    





続尋求教語録 第二十一節


『 金光様の御信神をしております 毎日拝んでおります おかげを受けております というだけでは まだ金光様の信神は分かってはおらぬ いろいろのご修行を頂いて骨をおって御信神しておると 次第に金光様の御信神のお道が本当にわかって来る 』

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