日課のウォーキング中、僕は腕をぐるぐる回したり引っ張ったりして、固まった体を伸ばしながら歩いています。
先日、いつものように背伸びをしたり、腕を回していたら、前方20メートル先の人が僕に対して手を上げて「おはよう!」って、遠くの方から声が聞こえました。
きっと知っている人が手を大きく上げて挨拶をしたと勘違いしたんでしょうね。僕が大きく上げた手に返答するべく、手を上げ挨拶されたんだと思います。
すれ違うときになって、お互い知らない顔だと認識して、気まずそうに軽く会釈してすれ違いました。
当たり前の事ですけれど、挨拶したら挨拶が帰ってくるんですね。
当たり前だけど、なんだか納得した朝の一コマでした。
その人を通り過ぎながら思った事がひとつ。
それは「人を変えよう」とか、「周りの状況を変えよう」とか思うのならば、それを思った人から変わっていけばいいんだってこと。
手を上げたら、向こうの人が手を上げて返してくれたように、
気がついた人自身から先ず変わっていったら、必ず周りも変わっていってくれるに違いない。
信心を進めれば進めるほど、家族や周囲の大切な人のことを願わずにはおれなくなるものです。
なかなか願っている人が良くなっていっていかないと、イライラしたりすることも。
親子の例で例えてみると、神様はその子供だけを良くしようと思っているのではない。
願い主の親をまず助けて、その親と一緒になって子供を助けようとされるから時間がかかるのだと思います。
みんなが良くなっていくための道中なんです。
そのためにはまず自分が助かること、良くなっていくこと。
そして、相手が変わってくれるまで、こちらの気持ちを切らさずに持ち続けていくこと。
さらに我が心を良い心に育てていくこと。
神様から頂いた自分の中いっぱいに詰まった良いものを、おすそ分けできる自分になれたら最高じゃありませんか。
そういう風に思います。