先日は、僕の誕生日でした。
もういい年なので誕生日だからといって、ウキウキすることはありません。
「おめでとう」といわれてもピンと来ないものです。
けれども、先日たくさんの人からお祝いの言葉をかけてもらっているうちに、気持ちが変わりました。
「またひとつ年を取った」というぐらいに思っていたけれどそうじゃない。
当たり前のことじゃない これを自分が喜べないのはどうかしてる と。
以前こんな話を聞いたことがあります。(以下)
それはテレビによく出ている所ジョージさんの話です。
所さんは「歳をとる」という言い方をしない。
どういう言い方をしているかというと、
「いいねえ、あの人はああいう“歳のもらい方”をして」とか、
「私もああいう“歳のもらい方”をしたいもんだなあ」とか、
「歳を取る」というところを、あえて「歳を貰う」と言い換えて言っていたそうです。
これは所ジョージさんの素晴らしい発想の転換なんです。
「またひとつ歳を取ってしまった。もうこんな歳になったか」と思ってしまうもんだけれど、チョット待てよ。
これは知らないうちにネガティブになっているぞ。
よく考えてみれば、歳を重ねるいうことは当たり前のことじゃあない。
神様からたいへん貴重なモノを貰っているんじゃないか。
こればっかりはお金で買えるもんじゃないぞ。
そうすると、これはため息付くどころじゃない。
ネガティブになるどころじゃない。
嬉しいことなんだ。当たり前としたらイケない。
有難い、勿体ないことなんで、これを喜ばないでどうするか。
という発想を転換して、自分自身に言い聞かせている言葉だったのです。
推察するに、所さん本人が数年前に熱中症で倒れて危ないところを通ったからこそ、この事が尚のこと身に染みて分かるのではないでしょうか。
これこそ クヨクヨせずに日々喜んだり楽しむことを大切にする 所ジョージさんの生き方の秘訣かも。
我ながら考えてみて、自分の誕生日を喜べないなんていうのは、やっぱり損する生き方をしてますね。
また、「歳を貰った」という、これはなにも所さん独自の発想ではなく、私たちの祖先が元々持っていた発想だったと思います。
その昔、お正月がみんな誕生日という時代がありました。
お餅は魂の形を表していて、お餅を食べることで魂のエネルギーをチャージ補填するっていうことだったとか。
また、「お年玉」というのは本来お金のことじゃなくて
「魂をもらっている」「歳を貰っている」という感覚が昔にはあった、そうやってみんな一斉に歳を重ねた。
そのナゴリが現代まで伝わって残っている「お年玉」という風習なんじゃないかと思うのです。
「もうこんな年になってしまったのか。年はとりたくないもんやで」
そんなことは、もう言いっこなしと心に誓いました。
教祖御理解 第五十五節
賃(ちん)を取つてする仕事は 若い時には頼んでも呉れるが 年を取つては頼んでくれぬ 信心は年が寄るほど位がつくものぢや 信心をすれば一年一年難有うなつてくる
子供の頃病弱でひ弱だった僕が、46も年をもらってきた。そのことの感動がジワッと胸にこみ上げてきます。
「貰う」という言葉について、
「ただ与えられたモノを受け取ったいうんじゃ「貰った」とは言えない。
ジーッと持ったままじゃいけん。それを役に立てて使うことが出来て、はじめて「貰った」と言えるんぞ」
と僕は教えてもらいました。
この歳をもらった喜びを土台に、これから一年の僕の原動力に変えて、ますます励んでいきます \(^_^)/