歌の大好きな友人が、ある時僕にクイズ。それは次のようなものでした。
「北国の歌には『情のこもった歌』『情を歌ったもの』が多い。それは何故か分かる?」
うーん、分かるようでわからない。 なぜだろう?寒いからかな?
ここで時間切れ。しびれを切らして友人が答えた。
「それは、北国の人は冬は特に生活環境が厳しいから。それだけ思いが強くなる。だからその思いが歌の世界にまで出てきているということなんだ」
なるほど、そうかと思った。
北国の方々の春の訪れを喜ぶ気持ちは、雪かきをしたことのない僕たちとは比べ物にならないはずです。
数十年前などまだまだ不便な世の中で、しもやけとか、水仕事のあかぎれとか当たり前。
寒さの中を家族みんな肩寄せ合って暖を取ったり、出稼ぎに行った家族のことを思ったり。
不自由の中を通ってきた人の絆の深さ、生き力の強さを思わずにはいれませんでした。
僕がぴちぴちの20代の頃に
「信心は楽しい有難いもんだと言いますけども、僕は信心の何が楽しいのか有難いのか分かりません。有難い気持ちになりたいけど、なれません」
と尊敬する先輩の先生に胸の内を伝えたことがありました。
当時の僕からすれば、周りを見渡せば「有難うございます。…」とブツブツ言いながら拝んでいる人が何人もいて。
話を聞けば「とにかくお礼の心が大切だ」ということばかり。
真面目な僕は、拝みながらナントカ自分の中の有難い気持ちを搾り出そうと頑張るけれど、すればするほどダメで。
理屈は分かるけど、心から有難くならない。
「そう思えない自分がおかしいのかな」と思ったり。
それでこの人だったら、教えてくれるだろうと思い切って聞いてみることにしたわけです。
僕の訴えを聞いて、その時、先輩の先生が言った言葉が忘れられません。
「あのなあ、『自分が本当に心の底から信神は楽しいもんじゃ。自分の人生は楽しいもんじゃ、有難いということが分かった』というのはな、
『人生いうのは、いろんな辛いことがたくさんあって、いろんなところを通らないけんのじゃということが分かった。そこを通ったから今の自分がある。無駄じゃなかった』という裏返しなんじゃ。
物事は、表と裏がある。
じゃから、真(しん)から『ありがたいなー、楽しいなー』ということが自分の心に浸みて思えるようになったという、その人の心の裏を覗いたら、
『どれだけ辛い目を通って来たか、苦労を通ってきたか分からん』という、その裏付けがあるんじゃ。それで本当の楽しさが分かる。
君が『信神の何が楽しいのか、有難いのか分からん』と言うけど、今のアナタならそれが本当です。普通です。それでいい。
ただし、人の人生いうたら皆そういうことじゃから、アナタはこっからその裏付けをシッカリやれぇ。
これから生きてたら人生いろいろ出てくるぞ。それを逃げずに受けて通っていけ。そしたらだんだん楽しく有難くなってくるぞ」。
あれから20年近く経ち、今もその道中です。
先生の言葉どおりだったと実感してます。
世間には、「有難いと言わねばおかげが貰えんから」と無理に言っていたり、ただ口癖で言っている人もいますが、「嘘でも有難いと言ったらいい」って、嘘はいけません。
それは「心で憎んで口で愛すなよ」二面性で心のない形式的なもので、心底から出るのとは別物で何にもなりません。
心がついてこなくとも、せっかく口に出すならば自分に言い聞かすために「ありがたい」と言わせてもらいたいものです。
折に触れ、信心を教わり習い、いろいろな出来事を通って、いつの頃からか僕は信神が楽しく有難くなってきました。
何時のころからか、僕は春の到来が心から嬉しいです。