「ありがとう(僕は)嬉しい」「晩ご飯(あなたは) 何がいい?」
といった風に
日本語の日常会話には 主語がなかったりするし、ない方がしっりくるものが多くある。
これには学術的に所説あるそうですが、
発売から20年が経つ『日本語に主語はいらない』 著)金谷武洋
のp.52に、
「日本語では、言語化される過程において「誰がどうした」という意図的な行為よりも「自然にそうなった」と表現する強い傾向がある。これと英仏語の人間臭さは実に対照的である
とあった学び仲間が教えてくれた。
実は能動態「私が○○された」と受動態「私が○○した」の対立関係の文法は
歴史が浅く、「責任の所在を誰にするか」をハッキリさせるために出来上がったとか(法律が適用でき、刑罰を決定できるから)。 欧米の英語文法を 明治の文法整備にあたり、日本語に押し込めようとしたことから混乱が生まれていると、著者は述べているわけです。
さてさて、このお道でよく耳にする「めぐり」という言葉
これは「前々のめぐり合わせ」の略。
目の前に起こってきた出来事(特に困ったこと)に対して、
当事者が「自分が蒔いた種じゃないならまだ受け止めようもあるが、なんでこういうことが起こってきたのか分からない」といった時の、「このお道ではこう考えます」といった返答に多く使われている。
考えてみると、
この言葉「前々のめぐり合わせ」も、いつの頃からか「めぐり」と省略されていく間に、
能動態「私が○○された」と受動態「私が○○した」の対立関係の文法が世の中を席巻するようになり、それに影響を受け、意味合いが変わってきた部分もあるのではなかろうかと僕は思ったのです。
つまり「前々のめぐり合わせ」も、本来は責任の所在をハッキリさせない、誰も責めない素晴らしい言葉だったのが、
「責任の所在を誰にするか」をハッキリさせないと!って意識が、気づかないうちに「先祖が悪い」って先祖を責めるようになってきているのでは。
いつの間にか「めぐり」の本来の意味合いが変わってしまっているのかも…。
秋の夜長湯船につかりながら、そんなことを考えたりする今日この頃です。