友達が早々と新米を購入したと教えてくれました
それを聞いて、以前食べた新米の塩おむすびの味わいが
僕の舌からよみがえってきました
今年の酷暑の中、「元気なのは雑草だけ」なんて言葉も耳にして
「その通り」と思いました
なんのなんの
お米も元気、お百姓さんも雑草に負けず元気に お米作りをされたのですね。 見習わねば ^_^
さて、今日は
続尋求教語録28 『 本百姓なら草の山からでも米をとる 』
という教えについて。
「本百姓なら」とあります。
つまり、
「本当にお前がこのお百姓、この農業を自分の生き甲斐にして、本当に生きていくお前なら、例え草の山からでも米をとるぞ」
という
信神する者の真剣さ、
いかに自分が真剣な心持ちで信神をせねばいけないか、
自分の務めを務めさせてもらわねばならないか、
そんな神様の深い思いが込もっている言葉なのですね。
昔の言葉に「上農、中農、下農」というのがあります。
「上農」というのは立派なお百姓さんということ
『上農は草を見えずして草をとる。中農は草を見て草をとる。下農は草を見ても草をとらん』
という昔の諺がありますように
お百姓さんは、物を育てるために取っても取っても草が生える。
その草と根比べをしながら一生懸命土を這うて草を取っていきます。繰り返し繰り返しキリがありません。
そして、そういう中にもどうやっても防げない、
どんなにしてもお百姓さんが自分の作物を守れないものがある。
それは“天災”です。
どんな風が吹いてくるか、どんな雨が降ってくるか分かりません。
この“天災”は、もうお百姓さんどうしようもないから、被害に遭ったら そのまま受けてまたイチから始める。
コレをコツコツコツコツ繰り返し、繰り返ししている内にとうとう作物と話が出来るようになるという。
この続尋求教語録の教えは、その事を私達に教えておられるわけなんです。
「本当にお前が信神をして、この信神を頼りに、神様を頼りに生きていこうと思うんなら、本物の信神をすのなら、
たとえどんな事が出てきても、それに負けずに根比べをして、
自分の人生のいろいろな難儀の草をとれ。
そして神様から頂いいる自分の心を育てなさい。
たとえ自分にどんな難儀が向かってきても、どんな自分に耐えられん事が目の前に起きてきても、
それに向かっていって、一生懸命神様に縋って、その難儀の中を生きていきなさい」
「神様はその難儀を無駄に与えているんじゃないですぞ」と。
「どうしてもココをお前が通らねばならない。コレを通っていったら必ず神様が約束してくれている自分の幸せな運命へ手が届く」と。
身の上に草が生える、
自分に思わぬものが出てきたら 逃げる人は逃げます。
たいてい、
「何代前のご先祖様がドウヤラしとるから、今ワシ等がこういうエライ目に会いよるんじゃ」と、ご先祖様のせいにしたり、いろんな事をって逃げます。
逃げたら“本百姓”になれません。
逃げたら本物になれない。
だから御信神をさせてもらってる者は、
どんなことがあっても
「コレを通らせてもらいます」
「コレを通って、おかげを頂きます。どうぞ私の信神を研いてください。神様と同じ心を持つような、私の信神心を育ててください」
これで前へ前へ進んいったら、
必ず神様が与えて下さっているものへ自分の手が届く。
長い間のお百姓さんが、作物と話をすると言います。
本当にそういうことが私達も信神で出来るようになるのだと僕は思います。
今年もこのことを新米から教わったような気持になりました。