先日、地域の秋祭りがありました。
コロナで自粛が余儀なくされて以来、二年ぶりのお祭りで
たくさんの人が集まり、すごい熱気でした。
どぉん、どぉん、どぉん と太鼓の音にあわせて
ヨーイヤサー、ヨーイヤサーと大勢が声をあげる。
屋台(いわゆる御神輿)がユッサユッサ激しく揺さぶられ、町を練り歩いていきます。
(こちらの地域では長く太い竹をみんなで支え、ガッシガッシ根元の部分を地面にたたきつけたりもする)
躍動と開放・発散。これがホントのお祭り騒ぎ。
宵宮・本宮と二日に分けて執り行われた秋のお祭りは、夜遅くまで続き
11時を過ぎても太鼓の音と人のざわめき声が聞こえてきました。
どぉん、どぉーん、どぉーん
後日聞いた、ご近所の年配の奥さんの言葉に僕はじんわり温かいものを感じました。
それは、次のような言葉です。
「私はいつもなら家の玄関の外灯を消して寝る時間だったけど、遅くまでお祭りがつづいていて、
私の家の玄関の明かりをつけたら、少しは明るくなって皆さんが安心して帰られるんじゃないかしら。
今外灯を消したら外を通っている人達の足下が暗くなってしまっては可哀想。
そう思って、その日は起きて遅くまで起きて外灯をつけてました」
ご主人に先立たれて独り暮らしをされている方が、
「こんな年寄りになって、誰も相手にしてくれない」と屈み込んでしまうどころか、
こういうふうに「私でも出来ることがある。役に立つことをしよう」と外灯を点していたんですね。
これはチョットしたことかもしれません。
しかし、その明かりはどれほど夜道を行く祭りの参加者・見物客たちを支えたことでしょう。
みんなが安心して一日を楽しみ喜んでくれたに違いありません。
文字通り町を明るくしたと言ったら、言い過ぎでしょうか。
言い過ぎついでに言いますと、
こういう思いが自分を助け、人を生かしていく と思いました。
尋求教語録101
「御信神する者は 粉なし実が多いの 少ないのと すばろうしゅう(不満げに)いうてはならぬ いつも中年(平年)の心持ちを忘れずに暮らしたら すばろうしゅういうことはない」
(すばろうしゅう : 不足を言う)
「信神する者は、こなしみ(収穫)が今年は多いとか、少ないとか そういう愚痴や不足を言いなさんな。
いつも中年の心を忘れずに暮らしたら、何も不足をいうことは無いじゃありませんか」
というみ教えです。
『こなし身が多い、少ないのと すばろしゅういうことはない』と例えて仰っています。
これは 自分の思い通りにならぬと不足を言うてはなりませんぞ という意味。
あなたは自分が思うとおりにならぬ時に、困っていた時に、どんな心持ちで過ごしましたか? どんな思いで神様に縋りましたか?
今それを忘れてやしませんか?
お蔭をいただいて喜んだことを、おかげに慣れてしまって、忘れているのではありませんか?
と優しく戒めておられるみ教えが、この「中年の心」というみ教えです。
思うとおりにならないとすぐ不足を言う人は、
思うとおりになればコレに慣れて、無駄をする人です。
つまり心の貧しい人。
そこで信神する者は、いつも中年の心持ちを忘れるなと仰っているのです。
「中年の心」とは、当たり前の生活を これを「幸せなことだなあ」と喜んで有難うに毎日を過ごすいうことなんです。
お祭りの夜、玄関の外灯を点した年配の奥さんに 僕はこれを教えてもらいました。