出雲神社に大集合して会議をするので 文字通り全国の村から「神様がご不在になる月」というところから来ているとか。 もともとは神様に収穫した五穀を捧げて感謝のお祭りを行う季節だったことから、「かむなづき=神の月」の意味から来ているとか。
僕は後者のを推しています。だって神様がいないわけないから。
秋になると、地域の秋祭がとり行われます。
うちの地域も毎年すごく盛り上がります。ふんどし姿の男の人がわんさと溢れかえるのですね。
(コロナのたしばらく開催されていなかったので、今年は特に大盛り上がりでした)
先日僕が外出先から車で帰って来たとき ちょうど秋祭りの当日で 祭り屋台(御神輿)が通行するため道が通行止めとなっていました
僕は早く家について他の用事に取り掛かりたかったので、ぐるっと遠回りをして裏側から家にたどり着こうとしましたが、そこも通行止め
それならばと、さらにぐるりとわき道を回って入ろうとしたけれども、そこも通行止め
これでお手上げ。どうにもならないと観念しました。降参です
車の横を祭り屋台の行列が通り越すまで、通行止めは解除されません。
子供を乗せた馬を先頭に、行列は少し進んでは大きな竹を地面に打ち付けるという繰り返し。ふんどし姿の人たちが威勢の良い掛け声をかけて練り歩きます。
行列が通り過ぎるをジーっと待ちながら、思ったのは次のようなことでした
「俺はなんでも自分の思い通りにしようとしてたかも。やっぱり神様が中心で、その神様の流れに逆らおうとする方が間違ってる。何かと急ぎすぎていたかもしれない」
と。
思い通りにならない時に、
どういう心持ちでどういう生き方をすればいいか、
それを信心で習ってきてはずなのに、忘れていたなあって思いました。
みなさん思い通りにならない時、どんな気持ちになって、そこを通って行っていますか?
教祖御理解第12節
『 神に会おうとば 庭の口を外へ出て見よ 空が神 下が神 』
特に現代に生きる私どもは自分の住んでいる周りの自然を見つめる時間がありません。
ありませんというよりも、自分の周りにある自然を見ようとしません。
見て「何かを学ぼう」としません。
自分の周りにある自然、空、土地も自然です。いろんな草がはえていれば、草も自然です。
そういう所から「何かを学ばしもらおう」というような心持が乏しい現代。
こうした環境を人間が自分で作って、その中で何か追いかけられたようにして、アクセクして生きておるのが今の私どもなんです。
世の中の生活のスピードが加速していて、それも分かるとしても、ちょっと心を休めて、手を休めて、自分の周りの自然をもっと見て、自然の中にあるイロイロ教えられる事を勉強していきましょう。
目に見える、空が神、下が神とおっしゃるように、すべてが神様のお働きの中に包まれて生きている私たち。
この自分の立ち位置を忘れて、自分が人間中心の世の中になって、して、それで自分自身がいろいろ困っておるという事が多いと思います。
あなたは近頃空を見上げた事がありますか?
山を眺めた事がありますか?
足下の道ばたの花や草を見た事がありますか?
自然という常に自分を生かしてくれて、守ってくれている安心な世界に包まれて、生きいること。
この自然の働きが神様のお働きで、自分がどんな所で困っていても神様が一緒に困っている中を歩いてくれることに、どうぞこの自然から神様の心を読み取って、気づいていく。
そして、安心して目の前にある心配・苦労を逃げずに、避けたりせずに、一日一日そこを通り越していけば必ず良い結果が出ます。生きていて良かったという毎日が過ごせるようになります。
決して目の前の困った事だけを見て、どうしたらよいかと心配を抱え込んで、自分からその心配の枠を作って、その場でうずくまってしまっては私たちは生きる事は出来ません。
私たちの周囲は、私どもを助けようとして下さる自然の神様のお働きがたくさんあるわけです。その中に私達は生いるわけです。
「自分の心の庭を外へ出て見てください。自然を中心にした自由で楽しい、面白い生き方ができますよ。しかも家族仲間達と一緒に助け合うた生き方が出来ます」
と、こういうて仰っておられるのがこの教えです。