ある村に毎日のように喧嘩(けんか)ばかりしている一家と、その反対に一切喧嘩したことがない仲の良い家がありました。
さすがに喧嘩ばかりしている家も、好きでしているのではないと見え
「何か喧嘩をせずに済む良い方法は無いか」
と考えましたが、名案は浮かびませんでした。
仕方なしに隣の家に尋ねに行くと、隣の嫁さんは
「別に仲良くするコツというものはありませんが、私の家は皆悪い者ばかりですから、喧嘩ができません。あなたのお家は皆さん良い人ばかりですから、喧嘩ができるのでしょう」
と言いました。
そう言われて
「人を馬鹿にしておる。腹の立つことをいう。よし、なんぼ仲の良い家でも一度ぐらい喧嘩をすることもあるだろう。もしそうなったら、しっかり言い返してやろう」
とチャンスが来るのを、じっと待っていました。
そうしましたら、ある日、仲睦まじい一家の牛が牛小屋の栓木を外して飛び出したので、村中が大騒ぎになりました。
「さあ、今日こそは喧嘩が始まるにちがいない」
と門の陰まで行って、喧嘩が始まるのをじっと待っていました。
牛が飛び出したことについて話合っているようですが、一向に喧嘩が始まる様子がありません。
最初に嫁さんが
「私が水を飲ませに行くときに、よく栓木を見ておけばよかったのです。うっかりしていた私が悪うございました」
と断りをいうと、
今度はお祖母さんが
「いやいや、お前は家の仕事が忙しい。私は孫の守をして遊んでいるのじゃから、ちょっと栓木に気を付けてみておれば良かったんじゃ。この婆が悪いんじゃ」
と言います。
するとお爺さんが
「牛のことは、わしの役目じゃ。牛に草をやった時に、気を付けなんだわしが悪いんじゃ」
と言います。
次に主人が
「いや年寄りや家内が悪いのではない。あのような粗末な栓木をそのままにして置いたこの俺が悪いんじゃ」
と言います。
最後に息子が
「いやお父さん、私が夜学へ行く前に、ちょっと栓木を見ておけば良かったのです。それを油断した私が悪いんです」
と言います。
家内中みんな
「俺が悪いんじゃ。いや私が悪いんです」
と悪い者ばかりになっていました。
なるほど若しこれが自分の家だったら、
「わしは悪うない。お前が悪い。いやあんたの方が悪い」
と、他の者を悪者にしている。
「隣の嫁さんが『私の家では悪い者ばかりじゃから喧嘩が無いが、あなた方には良い人ばかりじゃから喧嘩が起こるんでしょう。』と人を馬鹿にしたようなことを言うておったが、これはホンマのことじゃ。恥ずかしいことじゃ
と心の底から合点したそうです。
信心乃心得 「 信心は家内(かない)に不和の無きが元なり 」
この教えについて、喧嘩ばかりしている家の人に、この教えをそのまま説いたのでは、単なる説教になってしまいます。
決して「不和のある家の者は信神が出来ない」ということを教えておられるのではありません。
誰しも円満な家庭を持つことを願っていますが、家の内というものは、余りにも身近な者の集まりなので、心安さに甘えて、つい我儘が出て不満、不和を招く結果になってしまいます。
御信神する者は、我侭が出やすい自分であることを弁え、御信神により自分の心を磨いていくことが大切です。
この心掛けが自分を治め、周りの者をも仕合せに導いていく元になるのです。
親子であろうと兄弟であろうと、それぞれ意見は異なるもので、人が集まって一緒に暮らす以上、不和があるのは当たり前です。
この不和の中をおかげで通らせて貰うことで、初めて分かり合えることがあり、皆が助け合える不和の無い家の内を築くことができるのです。
信心乃心得
「 信心は家内(かない)に不和の無きが元なり 」