9月になりました。夜になると、虫の音が耳に心地よいですね。
朝晩も過ごしやすくなってきて、身体が喜んでいるように感じます。
夏の夜空を彩る花火。
あの打ち上る時のピューの音の正体は笛だそうで、目だけでなく耳でも楽しめるように作っているんだと聞きました。
なるほど、たしかに僕達には五感(目、耳、舌、鼻、触覚)というセンサーがあり、それを通していろんな事を感じて物事を判断して日々を暮らしています。
そういえば昭和の夏の日、母は食べ物の匂いをクンクン嗅ぎ、傷んでないかどうかチェックして僕たち幼い兄弟に食べさせてたっけ。
あの頃、死んでしまったカブトムシを手に取ると生前より軽くなってて、「魂の重さってこれか」と感じた瑞々しい感性が僕にあったように思います。
感性を大切にしたいものですね。
そうすればもっともっと、感動して毎日を生きられると思うのです。
信心の心得 8
眞(まこと)の道を行く人は 肉眼を置て心眼を開けよ
この教えの 「置いて」 とは 「据えて」 ということ。
つまり 「大切にしなさい」 ということです。
これは五感すべてに言えます。
その昔、漁師さんは走る雲、沈む夕日をみて明日の天候を予知したといいます。
そこには真剣な生活をかけた長い年月の経験、海へ出る命がけの体験の繰り返しがありました。
自分が五感で感じる、その五感を通して神様も一緒に感じて下さり、神様の判断もそこに含まれます。
つまり、五感と心眼(つまり第六感)は決して別々のものではなく、一本の線で繋がっていて、どちらが欠けても本当の働きは出来ません。
そして、先ほどの漁師さんのように、一つのものに打ち込んで生きる人にならねば第六感は身につけらないと思うのです。
たとえ五感が衰えてもその第六感は冴え渡り、木の葉の舞う音など聞こえぬものを聞いたり、見えぬものを見たり、五感では感じられないものがいろいろ出てきます。
これは何も神秘的なことではなく、誰でも出来ることだと僕は教えてもらいました。
僕たちの祖先の古代人が本来持っていた身体の機能が、僕たちにもちゃんと備わっていて、長い間使わない間にさび付いて止まってしまっている。
その機能が息を吹き返し、再びよみがえってくる といったところでしょうか。
「そのためにも今の自分の信心を大切にして、今を上手に良い心で合わせて生きて時を重ねれば自分だけの何かが生まれて来る。
忘れていた眠ってしまっている感覚が甦ってくる。長く信心してきた人が70代に入ったら、そのチャンスがやってくる」
と僕は教わりました。
それを体感したくて、僕は五感を意識しながら今日も信心生活を進めます。
この身体に「お世話になります。いつもありがとう」と声をかけながら、日々動かしていきます。
皆さん、9月もよろしくお願いします。