今年最後の投稿となります。
今年も一年おつきあいくださり、ありがとうございます◎
皆さんの一年、どんな一年でしたか?
私はいつも年末に一年分の日記を読み返すことにしています。
なぜなら、振り返ることで、「だからこそ来年はどうしたいか」という方向が定まってくるから。
実は一年を振り返るに時に、私は忘れないようにしていることがあります。
それは以下のようなお話しです。
++++++++++++++++ ある若い人が教会の先生に尋ねました。
「先生、失敬な言い方をしますが、神様は勝手なものですね」
「あんた、えらいことを言うなあ。何でそう思うのか」
「神様の教えは、どっちに転んでも自分が損をしないようになっているからです」
「そんな教えがあるかな」
「神様は、おかげがあったら『わしが授けてやった』と言うでしょう。
でも逆に、おかげが無かったら『受け物が悪いからおかげを落とした』と言われる。
だからどっちに転んでも神様は損をしないようになっていて、いつも至らないのは私たち人間だということになるんです」
天地金乃神と云へば 天地一目に覧て居るぞ
神は平等におかげを授けるが 受物が悪ければおかげが漏るぞ
神の徳を受けようと思へば まゝよと云ふ心を出さねばおかげは受けられぬ
まゝよとは 死んでもまゝよの事ぞ
「あんたは、御理解第二十二節の話をしておるんだろうが、教えの表面だけ見ては神様のお心は分からんぞ。
この教えの中で神様が『平等』とおっしゃっているのは、支払いをする時の『割り勘』のようなものではないんじゃ。
神様のお手元から出されるおかげが同じなのではなく、一人ひとりがおかげを受け取るときに『平等』になるように取り計らってくださるんです。
例えて言えば、この者におかげをやっても半分は落としてしまうだろうと思われたら、その落とす分まで考えて余分におかげを授けてくださる。
その神様のお骨折りは大変なもの、それを少しもいとわずにおかげをくださる。
皆が『確かにおかげを頂きました』というまで、何度でもお骨折りくださる神様のお心掛け、お働きがここでいう『平等』なんです。
この神様のお心が分からずに、自分の力でおかげを受けたと思い、おかげを粗末にする者がおる。
『今の自分には、そこまでのおかげを受ける力はない』という所から出発して、神様の陰のお骨折りに対して『このおかげを大切にさせて貰わないと相済まない』という心配りができれば、
そのおかげを何倍にも広げて生かすことができるんですぞ。
おかげを粗末にすることを戒めて『受け物が悪ければおかげが漏るぞ』とおっしゃっているのであって、神様は決して私たちを叱っておられるのではないんです」
「なるほど、そういう深い意味があったのですか。よく分かりました。ありがとうございます」
+++++++++++++++
自分もよく頑張った。そしてそれ以上にがんばってくれた大きな存在がある。
そのことを少しでも気にとめていただけたらと思います◎
そのことで、さらに味わい深い一年だったと、喜びが深くなります。
今年もありがとうございました。
どうぞ、よいお歳をお迎え下さいませ。 ありがとうございます。