「自分はモノを知らない」ということ。
「自分は知っていても実際のことに当たってそれが使えない」ということ。
「自分がしていることが間違っている事と知らずにしていること」ということ。
三つのことを気づいた と ある大先輩のお道の先生が以前書いてたのを読みました。
この先生が若い時、大きな町の立派なホテルでフランス料理のフルコースを頂くことに。
テーブルに着くと、お皿が真ん中にあって、ナイフとフォーク、またスプーンが両脇に並んでます。
「さてコレをキチッと間違えんように、マナー通りに頂かにゃならん」というのが頭によぎったわけでして。
けれどもそこは前もって自分で本を読み、人に聞き、
「こうやって食べるんだ」というテーブルマナーを一応飲み込んで行った。
ただ、本当のその場になりますと、
ナンヤカンヤ出て来たモノを食べるのに、「ナイフはどこから使うんじゃったかな、ええいままよ」と、一番手前の方から使っていく。
使った後にボーイさんがその使ったナイフとフォークとお皿を下げに来る。
さすがに一流ホテルのボーイさんですからね、よく出来てます。
そっと今ったナイフとフォークの同じものを同じ所に置かれた。
そして耳元でそっと「ナイフとフォークは外側からお使い下さいませ」といって一番外のフォークを持って帰られた。
その先生は「はっ、やってしもうた。ワシは一生懸命習ったから、こうすりゃええんじゃな」と思うてやったけれども、
他のお客さんも横にもおられるし、前にもおられる。
そこは大きなテーブルで食べておられたそうですけども、自分が田舎者でそういうことに慣れんものですから、「さっそく、やってしもうた」と。
「やってしもうた」と思うたら舞い上がります。
舞い上がりながら、ビールが前に出てたんでビールをグイッと飲んだ。飲んだら飲んだだけボーイさんがビールをついで下さる。またソレをグイッとやる。
そしたら良い気持ちになりました。
もうフォークとナイフは分かりました。「外から使うんじゃな」
そしたら食事の途中にワイングラスにワインが注が、「今度はビールじゃのうてワインか」と思うて、良い気持ちでそのワインをグーッと飲み干した。
そしたら、ワインを注ぐ人がまた横にソッと来まして、同じだけ入れて下さった。
また飲もうかと思うたら、その人が「乾杯が済むまで、お口にならないで下さい」と耳元で教えてくれた。
その先輩の先生は、顔が真っ赤になった上に真っ赤になりまして、もういよいよ恥ずかしくなって、何を食べてもどんな味かさっぱり分からない。
あがってしまった。慣れない所ですからしょうがありません。
食事が進む内に、「よしパンを食べよう」と。けれどパンが無い。
何故かというと、隣の席の人が自分のパンを食ていた。
隣の人のパンは他にあるのに、自分のを食べられた。
「ワシのパンが…」と、その人はあれだけあがってたワケですが「こりゃあ隣の人も大したことはないな。ワシのを間違って食べよる」ということが分かった途端、スーッと気持ちが落ち着いた。
しかしながら、その時点でその宴はもう終盤でして、
誰がどんな何を話しされたやら、どんな料理が出とったんやら、まったく記憶にないというような事があったそうです。
そのことを折に触れ、笑い話としてアチコチでこの先生は話をしました。
そのことを何度か話をされているうちに心の中に生まれてきたことが。
それは、次の尋求教語録の御教えでした。
「神信心するからには、気づく心づくということがなければならぬ。気づく、心づくというても、気づいたこと、心づいたことを心に掛けて、御信神すれば万代の宝としてのおかげを受けることが出来る」
「気づく心づくということがなければならぬ」と言われています。
① いろんなことが起こるから、いろんな事についていろんな事を思うから、
「あそうか、コウイウ事があったらこうし方がいい」と気づくこと。心づくことがある。
けども、ただ「気づいた、心づいた」といっても、
そのことを常に心に掛けて、次の時には必ず「この時はこうだったから、こうさしてもらおう」ということをさせてもらって、そしてそのことをキチンと身につけていくということが無いとダメだと。
「気づいたこと、心づいたことというものを、どれほど心の中に持っていて、常に自分の生活の上に使っていけているだろうか」ということが、フッと頭をよぎったのだとか。
乾杯のためのワインを知らずに飲んだということだけれども、これはただモノを知らぬことの哀しさ、恥ずかしさに気がつかねばならない。
② またアレだけ事前にマナーを勉強しておいたのにも関わらず、実際に当たって間違ってフォークナイフを持ったということで、
「知っているハズのことが、事に当たり出て来ないのは自分のものになっていないからで知らぬも同然である」という風に気づいた。
そして、隣の人が間違ってることに気づかずにパンを取った。
これは取った本人は「間違った」とすら思うていない。
「自分もこれと同じ間違いをやりかねない」と思った。
③ この隣の人が先にこれをとっておらねば、自分もコッチをとった可能性がある。
自分もやりかねなかった。
「自分が正しいと思うていることが案外間違っている。それを知らずにしていることが多いのではなかろうか」ということに気づいた。
フルコースの食事のことから、この三つのことを気づいたわけです。
それ以来この先生は
①「自分はモノを知らない」ということ。
②「自分は知っていても実際のことに当たってそれが使えない」ということ。
③「自分がしていることが間違っている事と知らずにしていること」ということ。
この3つのことをハッキリ自覚して、いよいよ謙虚な姿勢になるし、このことを自分に言い聞かしながら毎日の教会ご用を進めていきました。
そしてそういう信神の道中を通っていくと、見えているモノ、聞こえているモノは、ほんのわずかで、見えないモノ聞こえないモノの方が、はるかにたくさんあることが分かってきて、
「今日は神様から何を気づかせてもらえるだろうか」と毎日が心躍る思いに。
そういう気持ちでご用をするから、
お参りになった人たちもその先生のお取次を頂いて元気を出してもらえて、
結果たくさんの人を導き、たくさんの人を助けて行かれました。
長年馴染んできた自己流の形は、良かれ悪しかれ、自分がそれを持っていることに気づくことさえ難しいものです。
自分の身の回りに出きてくることで、自分が持つ我流の形に気づき、
そしてそれに気づけたことが「神様のおかげである」と気づける所に私たちの大事な信神があります。
そしてその自己流を放しておかげの形に改め、神様、金光様と一つになる御信神を頂きたいと思うのです。