top of page
執筆者の写真いっきゅう

「恩返し・徳に報いる」とは

 二月は僕の師匠の命日の月です。  亡くなって、はや6年。恩を思い、感謝を思う。



 そういえば先生に、こんなこと尋ねたことあった。



 「よく信心の世界では、恩返しということを言いますが、

  神様、教祖様、師匠へのご恩返しとはどういうことでしょうか」  先生が教えてくれたのは以下のこと。


 あのな、相撲取りで言ったら、恩返しとは、師匠を負かせること。勝ち負けの世界だから。


 信心の世界で言ったら、師匠を超えることじゃ。

 つまり師匠に教えてもらったことを使って、まず自分が助かること。それから、人を助けること。多くの人を助けること。


 師匠の出来なかったことをすることじゃな。




 続けて


 Q「今の金光教の一般的な考えでは、お供えとか、教会のご用のお手伝いとかが恩返しになるのでは、と思うのですが」



  それはお礼。恩返しではありません




 Q「では、ご信者さんがたの立場では、どうなりますか」



  人を導くことじゃな。自分が助かったら、それを元にした生活をして、人から、『あの人のようになりたい』と人がついてくるようになったら、恩返しじゃな。   これはもちろんお道の教師にも言えること






 徳とは「心の行い、体の行い」


 「あの人は徳が高かったな」と亡くなってから個人の行いを称えて言うのであって、生きた人には使うものではないとも習いました。



 そして極めつけは、



 「初代を頂く」「先代を頂く」いうて言うがな、初代や先代の徳にぶらさがっとる人が多いぞ。踏み台にすりゃエエんじゃ。


 踏み台にして、神様から頂いた自分の新芽を伸ばしていけばエエ。


 ええか、ワシの事もそうぞ、ワシを踏み台にして、ワシを越えていけぇ。

 あなたはワシと同じにはなれん。ワシを土台にするんじゃから、ワシ以上になれるんじゃ(笑)


 そうなってくれにゃいけんで。



 十五年間、隙あらば師匠に質問し、帰れと言われるまで朝から晩までそばを離れなかった。


 そんな僕のことを嫌な顔ひとつしない、それどころかお参りする度に新しい話題を用意して待っていてくれて、むちゃくちゃ深い内容をたくさん教わった。


 「これが信心と言うことか。早く家に帰って信神がしたい」と、いつも元気をもらっての帰路。



 師匠を超える、そんな恩返しができそうにない現時点。


 師匠を超える、その方向性をしっかり定めて、一歩でも前を進んでいきたいと思うのです。

bottom of page