これまでお世話になっていた歯科が廃業し、近所の歯医者さんへ換わりました。
そこは建物も設備も新しく、部屋に入ると大きなモニターにレントゲンでとった私の歯の写真をドンと映し出すではありませんか。
近代的な設備に圧倒されました。新しい機械で写したのは、これまでのピンぼけ気味の白黒写真的なのとは違い、鮮明なカラー写真。
(どうやら、今までのやり方では発見できない所まで見つけることができるようで・・・。)
それから、若い歯医者さんは丁寧にくわしく、私の歯の状態と今後の治療方針の説明と確認をして下さいました。
この時、「いくつか虫歯がありますね」と悪い箇所を教えられて驚いたのなんの。
なぜなら、私はこれまで足繁く真面目に歯医者さんに通っていたんだから。
最初に思ったのは「そんなはずはない!」ということ。
次に「これまで真面目に通っていたのは何だったんだ」と。何ともやるせない気持ち、持って行きようのない嘆く気持ち。悔しい気持ち。
しかし、そのあと歯医者さんの説明を聞くうちに、不思議とそれとはまったく気持ちが生まれてきました。
それは「これはサイカケだ」と。
才崎の金光さま(才崎教会初代・片岡次郎四郎 師)が教祖様から頂いた、「人間生身じゃ痛い痒いが当たり前じゃ。それはさいかけじゃ」という、“さいかけ”という言葉です。
昔のお百姓さんが畑仕事の道具を長く使っていたら、やがて鍬や鋤の刃先が丸くなって切れ味が悪くなる。
そうなったら、それを鍛冶屋さんに持って行ってもういっぺん叩いて刃を作ります。
そうするとその古いモノが、今まで以上に切れるようになる。切れ味が戻ります。
そのことを教祖様が例えて「さいかけを神様がして下さる」と仰いました。
私は歯の説明を受けて、「一生懸命している者には神様が“さいかけ”をして下さる。これで人間としての持ち味・切れ味を良くしてもらえるんだ」ということが自分の中から出てきたんです。
有難くなりました。歯の悪い処が見つかって、残念どころじゃありません。嬉しくなりました。
こういうことは人様に云うと、おかしな人間と思われるかもしれません。自分の中でひとり持ってたら良いことですが、
私はこの時「一生懸命努力している者に神様がサイカケという、くたびれた所を修理したり、今までよりは心も体も、切れ味も持ち味も良くなって生まれ変わってくる。そういう機会を神様が与えて下さったんじゃないか」と思ったのです。
「この心と体を使って、今後ももっともっと周りの人達のお役に立つように、神様がそういう役目をさしてくださる」と自分に納得をし、有難くひとつひとつ治療に通わせてもらっています。
尋求教語録173
「『鉄でも使えばちびるぞ。人間、生身に痛いかゆいは当たり前ぞ。物にたとえれば、くわでもさいかけ(刃先の焼き直し)をしたら、はじめよりよう切れるようなもので、人間、時々痛いかゆいがあるのがさいかけじゃ』と金光様は言うてござった。
これがもとで信神もできるようになり、これが修行になって信神も進んでくる。
人間は勝手なものじゃから、痛いかゆいがあるとご信心できるが、どんなにもなかったら信神が寝入る。」
何か困った出来事が起こってきた時、それを「罰が当たった」とか、祟り障りだとか、そういう風に考えがちです。
けれども、それは違うと思います。悪い風に受けとるのは心掛けが違います。
神様が私たちに悪いことをされるはずがありません。私どもが良くなっていく為に一生懸命お働き下さっているのです。
もしも目の前に思わぬ事が起きてきても、それは後々良くなっていく為の出来事と思います。