3月3日は何の日?
- いっきゅう
- 3月10日
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三月三日は 桃の節句、女の子の成長と幸せを願うひな祭り でしたね。
男である私としては、あまりなじみがなく、どう過ごすモノなのかもよく分かってないようなことでして。
そんな折、看護師をされているある方が
「実は三月三日は、医療業界では耳(ミミ)の日なんです」
って教えてくれました。
耳に感謝、耳を労る日、いいじゃないですか。
いつも当たりと思っている、「聞こえる」ということ。
それは当たり前じゃないなと思う日。
三月三日は耳の日との意味でも大事にしたいですね。

そういえばこんな話がありました。
::::::::::::::::::::: その昔、ある方がひと年取ってから目が悪くなって、 ほとんど失明したような状態になりました。 それから一生懸命に信神をして、神様にお願いをしていますと、 その目がまた元に戻って、かなり見えるようになりました。
自分で自分のことができるようになったわけです。
その方が、ある時、家でじいっとして、外を見たり、床の方を見たりして座っていました。
その姿を見て家族の人は、「おじいさんは何をしておるのかな」と思い、おじいさんお正面にまわってのぞき込んだ。
そしたら、おじいさんは、じいっと目をつぶっていたそうです。
ところが、その後も、そいう姿が何度も見られるようになったので、家族の人は、「おじいさんはまた目が悪くなってきたのか」と皆で心配をし始めました。
そこで息子さんが、
「おじいさん、最近、目をつぶってじいっとしておられるが、また目が悪くなってきたんかなあ。具合が悪いんかなあ」と尋ねました。
おじいさんは、
「何を言うてくれるか。神様のおかげを受けた目に後戻りがあるもんか。
わしはなあ、こうして神様に目を頂いたんじゃ。神様のおかげでまた目が見えるようになった。
そのことを思うたら、おかげを受けた大事な目じゃから、時々、目を休ませてやらなんだら目がかわいそうじゃし、神様に相済まんような気持ちになって、こうして目をつぶっておるんじゃ。
それになあ、昔、目が見えなくなって、このまま世の中のことを見ずに終わると思っておったのが、おかげで少しずつ見えるようになった。
あの時の嬉しい気持ちが、こうして目をつぶっておると、心の底からじわっと蘇ってきて、なんとも言えんありがたいきもちになるんじゃ。
それでまた、元気が出て来るんじゃ。それじゃからわしは、目をつぶっっとるんじゃ」
と言われた。
それを聞いて、家の者は、
「なるほどなあ。おじいさん、よう分かりました」と答えたのだそうです。
このおじいさんの話しを聞いて、家の人は皆が信神を始めたんだとか。
おじいさんの後の信神をしっかりと継がれたわけです。
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このおじいさんの言った通りです。
神様のおかげを受けたありがたさというものは、「おかげを受けた!」と言って躍り上がって喜ぶような、そんな喜びではない。
神様のおかげを受けて、神様と一緒に喜ぶ、その心というものは、自分の心の中、自分の体の底からじわっとこみかげてきて、じいっと体内に響いてくる。
そういう喜びが、おかげを受けた時の喜び。
時々、そのことを思い出しては、繰り返し繰り返し、体の中から湧き出て来るから、おかげを受けた嬉しさというのは、生涯、忘れられない。
「年を重ねていくほどに こういう喜びをたくさん身につけて、ご信神に励まにゃいけんのぞ」
と私の師匠の在りし日の声。
この心の底からこみあげてくる喜びこそが、一緒に喜んでくださっている神様の喜びなんです。
神様と一つ心になって、自分のわが心が本当に喜んでおる、そういう喜びじゃから、自分の心からじわっとこみあげてくるわけです。
これを自分の中に、一つでも多く味わい頂いていくのが、私どものご信神でございます。
耳の日に思い出したお話しでした。
「たくさんのありがたいお話しを、この耳がきいてくれたから今があるなあ」
じんわり喜びながら、わが耳を労ろうと思います◎
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