感情にきづく
- いっきゅう
- 5月10日
- 読了時間: 3分
最近仲良くなった人から、こんな事言われました 「実は最初に会った頃、私はあなたのことを《いつもニコニコしているが何を考えているか分からない人》だと思ってた。さすがに、今はあなたという人が良い人って分かってきてますけどね。でも最近変わったよね」
ああ、そう思ってたんだ。でも分かる気がするよ、と思った私。
私は小一の時に父親を亡くして、母一人子供四人家族となりました。周りの大人たちから「お母さんを支えてあげてね」と言われたり、幼心に「家を守るんだ」と決意した気がします。そして「自分が好き勝手なことをしたり、言ったりしたら家がばらばらになってしまう」と。
反抗期もおとなしくしたまま大人になって。信心も少しかじって、分かった気になってニコニコ我慢の子やって来たわけですね。
何か分からんけど「ありがたい」といいながら「受けていく」というやつ。
「嘘でもありがたいと言いましょう」「ありがとうを一日何百回言いましょう」って。
私の師匠は、そんな私に「オメエ、わけーのに年寄りみたいなことを言うな(笑)優等生やめえ」と言いました。
「え、信心ってそういう事をするんじゃないの?!」
衝撃でした。
◯ 今になって分かること。気づいたこと。
それは「怒らないように」我慢の子をやっていくと、怒りを抑えることはできるのですが感情にフタをすることになるんです。
喜びも感じにくい自分になってました。不感症ですね。本当は怒るべきところでも怒れなくなって。
師匠は枠にはめることをヨシとせず、本音を大事にするように寄り添ってくれました。
けれど、肝心の私自身が自分の本音が分からなくなっていました。
その上「怒らない」「受けていく」私の姿勢をいいことに利用されたり、軽く扱われたり。
神様は不必要なモノは人間に与えていないのです。喜怒哀楽も人にとって必要なモノ。喜怒哀楽を自分に活用するのがご信神。
◯怒りはまず吐き出すこと。
その昔ヤクザ者どおしの喧嘩を仲裁するほど気の強いお婆さんがいたんだとか。 で、ふだんの生活で腹が立ったら、おばあさんは自分のお店の奥でドラム缶を角材でボコボコ叩いていたと。
ボコボコ叩ききって、それの何がイヤだったか。 だからこそ何を大切にしたいか。自問すると自分の中の大切な思いに気がつける。 それは神様から頂いた分け霊と言えるのかもしれない。気持ちも落ち着く。
だから、私のお取次は「感謝の押し売り」はせずにまずは感情を出し切ってもらうようにしている。

先日も、子離れがナカナカ出来なくなっているお母さんの話を四時間聞かせてもらいました。
「さみしい!つらい!」感情を一緒に泣いて出し切って、そして「よく頑張ったね」と自己受容。
心の状態が自己申告マイナス2と言っていたお母さん。
「私、子育て間違った、何も出来ていないって思ってましたけど出来ていることあったんですね。いまは4点になりました」と笑顔で帰って行きました。次回のお参り予約もして。
今後どれだけAIの技術が進もうとも、感情を取り扱う事は出来ないはず。
うちの教会にドラム缶は置くスペースはないですが、代わりにボコボコ叩ける分厚いクッション用意しておくことにしようか。
「自分を大切にする]と言うことは、自分の感情を大切にするということと思います。 そして、「 思いやりを持ちなさい」というのは、きっと自分の感情を思いやるという事も含まれている。