はっきり願うこと
- いっきゅう
- 1月10日
- 読了時間: 4分
受験のシーズンですね。
私も受験生や、その家族の思いとともに合格祈願をする日々です。
そして、「結果が出ました」と喜びの電話や、参拝されて結果報告を受けご一緒に神様へお礼の気持ちを伝える。
そんな嬉しいシーズンでもあるんです。
思い出すのは、とある日の私の先生と信者さんとのやりとり
「そうじゃありません。はっきり『どうぞ合格さしてください。この大学へどうぞ合格さしてください。あなたのおかげで孫をここまで仕上げました。ここで合格すれば、大学へ合格せなんだら、あなたにも相済みません。どうぞ合格さしてください』というてはっきりお願いをさしてもらいなさい」
「ありがとうございます。ほんなら元気を出して、孫のことを大学へどうぞ通らしてやってくださいと言うて、はっきりとお願いさしてもらいます」
こんなやりとりを何度も何度も見かけました。
そんな光景の一つ一つが私の記憶に残っています。

先生は
「どうでも合格さしてください。この子供に学力が足らねば、その学力を後からでも、合格してからでも、足らんところは足してやりますから、どうぞ合格さしてやってください。そこまでに思うて、神様にはっきり合格のお願いをさしてもらいなさい」 とお話をしておられました。
私たちは、妙に神様に遠慮をしちゃいます。
“もったいないから”とか言って。
実のところは、“こうしてもらいたい。こういうおかげを頂きたい”と思ってるんですけど、どうもそこがもう一つはっきりしない曖昧なところがあります。
◆神様にお頼みする時には、はっきり頼むこと
例えてみれば、子供のことについて頼むのに
「どうぞお役に立つ人間にお育てください」と。便利のいい言葉ですが、これぐらい曖昧な言葉はありません。
また「本人の役に立つような大学へ行かしてやってください」と言ったりするような、何かちょっとボーッとしたようなお願いをするけども、それはちょっとオススメ出来ません。
神様にお願いをする時の一番大事なことは、はっきりと神様に自分の意志を告げること。
「こうしてください。こういうおかげを頂かしてください」
と、こういう心持ちでお願いをさしてもらう。
なぜなら、それが「実意な心」ということだからです。
教祖御理解の51節にこういう教えがあります。
「天地の間に住む人間は神の氏子。身の上に痛み病気あっては、家業できがたし。身の上安全を願い、家業出精、五穀成就、牛馬にいたるまで、氏子身の上のこと何なりとも、実意をもって願え」
この“実意をもって願え”ですね。どういう意味でしょうか?
“実意”とは 心の姿 心の様子のこと。
私たちは、天地金乃神様という天地の親神様を御信神さして頂いています。 つまり親神さま、親の神様です。
その親へ願う一番の実意な心というと何かといえば
“自分自身が神様の子である。自分が神様の氏子である”
ということを、自分が自覚をして、
子供が親に頼むような心持ちをもってお願いをする。
子供が親に頼むような、親に頼むようなそういう心持ちで、お願いをさしてもらうということが“実意をもって願え”ということなんです。
つまり、“実意な”ということは、
「自分自身が神様の氏子です。神様の子です。私はこれから親に対して頼むんだ」
こういう心持ちを自分がもってお願いをすること。
子供というものは、ある時は親に縋る。ある時には親に訴える。
ある時には親に怒る、泣く、喜ぶ、話す、そういう心持ちを親に向ける、神様に向けてお願いをさしてもらうということが、これが実意ということ。
“実意をもって願え”ということは、そういう子供が親に訴える、親に頼むという、そういう心持ちをもって、親にお願いをする。
しかも、はっきりとお願いをすることが、これが“実意をもって願え”というておっしゃっているのです。
神様は、「牛馬にいたるまで何なりとも実意をもって願え」とおっしゃっています。
親の心を神様が丸出しにして、私たちに言ってくださっているのですから、
私たちも、本当に親にものを頼むような心持ちで、しかも曖昧じゃなしにはっきりと神様にお願いをするいうことが、
これがご信心で神様に願う一番大事なことと思います。