top of page

「せっかく」の呪いを解く、夏休みの魔法


令和八年のお盆。 風鈴の音が、アスファルトの熱気に煽られて、いささか喧(やかま)しく聞こえる午後でございます。

「今日は大雨ですし、お墓参りはやめておきましょうか」

いつぞやのわが親族の法事で、お坊さんがさらりとおっしゃった一言。 あのとき感じた、「えっ、ええのん?」という戸惑いと、どこかホッとしたあの感じ。 実はあれこそが、人間が何千年もかけて磨き上げてきた「祈りの知恵」やったんかもしれません。

私?  私はあのとき、「行かせてください、もう礼服着てしもたんです!」と食い下がりました。 信心というより、準備した手間を無駄にしたくないという、浅ましい「元取り」の精神。 でね、そんなふうに 「せっかく準備したんやから」「最後までちゃんとやらな」と自分を縛り付けているのは、実はご先祖様やなくて、自分自身なんやと気づいたんですよ。 「あなたの口癖の『せっかくやし』って何?』ってある人に言われてハッとした。



そもそも、祈りの歴史は「愛おしい手抜き」の歴史でもあります。 大昔は山や谷まで遺体を運んでいましたが、しんどいから麓に「拝み墓」を作った。 お寺まで行くのが大変やから、江戸時代には家の中に「仏壇」という窓口を作った。 沖縄や南米では、お墓の前でお弁当を広げてピクニックを楽しむ。 「死んだ後も一緒に飲もうや」という、ええ塩梅の合理化と愛嬌。

私の亡き師匠も、実におおらかな神職でした。 あるとき、プロのピアニストが「どうしても上手く弾けない箇所がある」と神頼みに来はったんですな。 すると師匠、ケラケラ笑ってこう言いました。 「難しいところがあったら、そこ飛ばして弾けばええんじゃ。ワシも祝詞(のりと)が難しいところは、そこ飛ばしてあげとるよ」 ピアニストは拍子抜けして、大笑いして帰っていかはった。 それでええんです。完璧を目指して眉間にシワ寄せるより、笑って「飛ばす」勇気。 ――― 令和八年の今、インターネットを開けば「夏詣(なつもうで)」やら「限定御朱印」やら、綺麗な写真が次々飛び込んできます。 近くの神社でも風鈴がずらっと吊るされて、「何かせなあかん」「どこか行かなあかん」と急かされているような気分になる。 でも、あわてないあわてない。ひとやすみ、ひとやすみ。

「覆水(ふくすい)盆に返らず」なんて言いますが、ウチのフクスイ君(仮名)もお盆に故郷へは還りません。 ウチのお宮はせめて彼のような人が、ここで少しでも故郷の風を感じてくれるような、そんな「逃げ場所」でありたいと思うんです。 私は、炎天下の中をお参りになった方と、冷たいお茶でも飲みながら、ゆっくりたっぷり対話をしたい。 形を整えることより、その人の心がふっと軽くなること。 それが一番の「神事」やと思うてます。

真剣にやってるけど、深刻になってへん。それ、めちゃくちゃかっこええこと。 そらそうや。

「祈りとは、自分を大切にすることの別名」なんです。 誰かの期待に応えるために、自分の声を無視しすぎてへんやろか。 自分の存在を、なんでそんなに値引きして売るんか。 あんたがそこにいて、笑ってる。それだけで誰かの一日が変わってることに、知らんぷりしたらあかんで。

「せっかくのお盆やし、今日は自分の好きなことだけしよか」 「せっかく生きてるんやし、もっと私を大切に扱ってくれる場所へ行こか」

「せっかく」を、自分を追い込むムチやなくて、自分を愛するための魔法の言葉にしてやりませんか。 あんたは、あんたが思っている以上に大きな存在なんやから。

……とはいえ。せっかくピシッと決めた礼服姿。 鏡を見て「お、今日の俺、案外ええ男やん」なんて思てしもたら。「せっかく格好ええんやから、やっぱりちょっとお墓まで見せに行こか」と、汗をかきかき出かけてしまう。

その「結局、形にこだわってしまう」カッコ悪さも含めて、人間。 ご先祖様も神さんも、そんなあんたの滑稽な一生懸命さを、身近で笑いながら見守ってくれてはるはずですよ。



 
 

神さま、おるで。

-ここは、あなたに戻る場所ー

bottom of page